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執筆者の写真movefreeonline

違うヒト達

もう20年もトレーナーという仕事をしていると、知り合いも同じ業界の人ばかりになってしまう。


でも、プライベートで同じ業界の人ばかりと関わっていると視野が狭くなってきてしまう部分がある。


なので、プライベートでは動物とか、空間デザインとか、建築とか、服飾とか、カメラマンとか、心理職とか、格闘家とか、植物の専門家とか、「トレーナー」という仕事とは直接関係ない人達と交流するようにしている。敢えてそうしている、と言うか興味が四方八方に分散してしまうので、気付いたら結果的にそうなってしまった。


だけれど、結果的にそれが自分なりの「ヒト」の定義に大きな影響を与えているような気がする。


それぞれの専門によって、当然「ヒトの動き」を見る視点が違う。例えば服飾であれば、動きを妨げないようにどうやったら立体的に、かつスタイリッシュに「ヒト」が見えるか…という事を考えるし、空間であればどうやったら「ヒト」に違和感を抱かさずに自然な動きを引き出すか(アフォーダンス)を考えるし、カメラマンだったらどうやって「ヒト」と空間を美しく関わらせるかを考える…のように、「生きたヒト」を主役に様々な表現を展開している。


トレーナーやセラピストという仕事をしている私達の「ヒト」の捉え方はどうだろうか?


どこかでヒトを部品の集合体のように捉えてしまう傾向があったりするのではないだろうか?収縮と伸張のバランスでのみ成り立つ無機物のように捉えてしまう感性があったりしないだろうか?


かつて自分がそうだった。


様々な表現に携わる人に触れるうちに、自分が固執していたヒトについてのバイアスが緩和されて、少し自由になれたような気がする。


そうすると知りたい事の幅も広がって、同時に「ヒト」の捉え方も拡がり、いわゆる「引き出し」の数も、引き出しの本体になっている机の部分も少し大きくなったような気がする。


いまのところ僕は中年なのに心理学の学部生なのだけれど、もし無事に卒業できたら次は芸術学に進みたいと思っている。


環境が感覚や認知を生み出すならば、その環境をいかにデザインするのか?は結構重要なんじゃないだろうか?


いろいろな施設作りで関わった建築デザイナーの方達の「ヒト」の捉え方は、本当に「生きたヒト」に根差していたように思う。


何かそういう感性を自分の中にも発生させたい。



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