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筋力主義には本質も深みもない

執筆者の写真: movefreeonlinemovefreeonline

筋力主義の時代は、もう随分前に終了している。


ヒトを筋肉と関節の総和だとする考え方は、実際にフィールドや日常で起こる運動を捉えきれない。姿勢や運動は身体パーツの総和ではなく、言うなれば掛け算、創発だ。


「股関節の可動域を拡大して殿筋を鍛えればパフォーマンスが上がる」とか「胸椎の可動性を拡大すれば上肢の運動は改善する」といった「筋・関節至上」のような考えが当たり前のように思える時期がひたすら続いている。


海外のセミナーに行っても、前フリは脳科学が〜とか言ってても結局は「筋力の向上と関節可動域の拡大」に終始しているものしかない。そんなものは最先端でも、本質でもない。


運動は全て「捉え方」、すなわち認知の仕方とそこから発生する方略によって決定される。


どれだけ可動域が拡がろうが、筋力が増大しようが、認知の側面が変わらなければ運動自体は変容しない。


そもそもの「課題の見かた、捉え方、解決の仕方、フィードバックの処理の仕方」が変わらないなら、運動は変わらないのだ。


関節や筋はそれらを形成する一要因ではあるが、ほんの一要因に過ぎない。


認知は運動発生の際に世界を受容する感覚や、情動、経験、結果、誤差、修正、学習によって作られて行く。そしてそれが新たな運動表出を形成していく。


ではあるが、スポーツのためのトレーニングやリハビリテーションは未だに関節と筋、何か目新しそうなものでも「運動連鎖(死語)」に留まってしまっているように思う。


時代錯誤というか、「ヒトへの認知の錯誤」が根底にあるのではないだろうか。


「ヒトそのものを学ぶ」事を放置してトレーニング科学や徒手療法の方法論をどれだけ学んでも、そこには何の深みもないように思う。









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