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始まりを思う

トレーナーになろうと思ったのは、2000年のちょうど二十歳だった時だ。早稲田大学の戸山キャンパスに新学生会館ができて、その地下にフィットネスセンターが入った。僕は商学部のダメ学生で、毎日アルティメットというマイナーな競技と遊びに夢中だった。僕は1年生の前期に取った単位がたったの「1」というほどフザけた学生で、7時からの朝練に出たら授業に出ずにそこら辺で寝て、高田馬場のHUBのハッピーアワーが始まる16時から酒を飲んで、また7時の朝練、そしてその傍ら週8回合コンをするような、それはバンカラというよりバカと言っていいガキだった。


こんな遊んでて将来大丈夫かな〜なんて少し不安を感じていた2年生のオフシーズンに、できたばかりのフィットネスセンターに初めて足を踏み入れた。

 

 当時、清原選手や格闘家の船木選手なんかがウエイトトレーニングに取り組んでいて、「肉体改造」が注目されていた。その影響もあった。遊び狂いながらも、少しでも動けるようになりたいな〜という軽い気持ちで、フィットネスセンターに通い出したのだ。1週間で、トレーニングに夢中になった。懸垂が1回もできないような自分への悔しさもあったかも知れないが、何かわからないが楽しかったし、可能性を感じた。それは運命の女性との出会いと同じで、何がいいのか分からない、でも好きなんだ、将来幸せになれる気がするんだ〜…そんな感じだった。


 通い出して2週目に、中村千秋先生の解剖学の本を買って(その後中村先生に大学院で運命を変える一言をもらう事になるのは、その時は知る由もなかった)、解剖学を独学で勉強し始めた。マーケティングの本など教科書以外で買った事もない(教科書さえ買わなかった…)僕が、自分の勉強のために本を買ったのはそれが初めてだった。同時に小山先生の著書「奇跡のトレーニング」も買った。この本には、当時メチャクチャ影響を受けた。


当時の自分は、トレーニングの持つ無限の可能性を直感的に感じて、それを信じて疑わなかった。毎日飲み歩いていたバカ学生は、あの時以来酒は少々にプロテインを飲むようになった。バカ学生から、トレーニングバカ学生への進化だ。


その進化が僕の今日に繋がるなんて、そのときは思いもしなかった。

でも、あの言葉にできない楽しさの中から、僕は将来の光を見出していたと思う。トレーニングの楽しさや可能性は、人に伝えるべき価値のあるものだ、と。






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セミナービジネスをやっているトレーナーさんのほとんどが、ちゃんとトレーニングをしている訳でも、身体の扱いが上手い訳でも、臨床を突き詰めている訳でも、スポーツ現場で日々悪戦苦闘している訳でも、研究の大変さを日々感じている訳でも、パーソナルトレーニングを月300本やっている訳でも、新しい知見を創造している訳でもないんです。 知識の盗用・剽窃をして安易にお金を稼ぐ方法を知って、甘い汁を吸っているだけの人

もう20年もトレーナーという仕事をしていると、知り合いも同じ業界の人ばかりになってしまう。 でも、プライベートで同じ業界の人ばかりと関わっていると視野が狭くなってきてしまう部分がある。 なので、プライベートでは動物とか、空間デザインとか、建築とか、服飾とか、カメラマンとか、心理職とか、格闘家とか、植物の専門家とか、「トレーナー」という仕事とは直接関係ない人達と交流するようにしている。敢えてそうして

世の中にいろいろな仕事がある中で、トレーナーという仕事を選択する人というのはどこか常識に縛られないと言うか、ある意味では社会に適応的ではないと言うか、まあ簡単に言えば少しはまともじゃない所があると思う。 トレーナーの仕事を全うして社会的に成功して人生を終えたとか、幸福な一生を送ったという人は、ほとんどまだこの世にいない。 あと10年したらそういう人が現れてくるだろうけれど、今はキャリアパスやロール

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