今は分かるけど、当時は分からない事もあるという話
「生きながら、生かされている」という話を、高校生の時に聞いた事がある。
正直言ってその頃はちょっと何言ってるか分からない…と思ったけれど
「誰かに勝つ」「目標を達成する」と決意してオラオラァ…と事業や学問に邁進するうちに、「あいつに勝つとか、もはやどうでも良いわ」とか、「目標達成したけどもっと高い山が見えたわ。まだ全然だ俺…」という井の外を見た蛙、茹でられ始めた事に気付いた蛙になる時が、ちゃんとやっていればいつか必ず来ると言う。
そういう時、「自分は必死で生きて自分で道を切り拓いてきた気でいたけど、それって周りの人に支えられてたからここまで来れたって事だよな、俺って生かされてただけなんだな…」と気付くものらしい。で、その気持ちが「謙虚」の本質なんだと。
謙は相手を尊重する事を意味していて、虚は空っぽで邪がない心を意味する。これは本質的には「素直」と似た意味で、自他ともにありのままにいる、自他ともにありのままに受け入れる、という事。
偉いとか、有名とか、金持ちとか、学歴ヤベェとか、そういう表面的な事は置いといて、「人生」というそれぞれの山を楽しみながら登ろうね、お互い応援しながらそれぞれの山を登ろうね、と、思える日が来るから、そうなれるように頑張りなさいね、それが「成長」だよ、という話。
僕は中学・高校と仏教校で生きていたので、何かこういう話を偉いお坊さんから聞く機会が多かった。
今になると良く分かる。本当にそうだよな。当時はそんな話より「それより北斗の拳読みてぇなあ」とか、「早くラグビーの練習の時間にならんかなぁ」とか「大好きな湘南白百合のあの子の連絡先知りたいんだわ」とかそんな事しか考えていなかったけれど。
しかし今にして思えば、いつの間にか身につく人の知らない何かを知ったような優越感、事業が少し上手くいっただけで調子に乗るような小ささ、自分が何か特別な事をしているような傲慢さみたいに、人との比較の中で自分を認識していた時は傍若無人まっしぐら、無知を自覚できない不遜、新しい世界への拒否感、思考停止の塊で、謙虚でも素直でもなく、傲岸不遜傍若無人厚顔無知な自分が育っていた。知る事を楽しむどころか、知っている俺スゲェだろ?みたいな。
痛いよな。
生きているのは、生かされているからだ。
これはどんな進化の原理や発達の原則よりも大切で、そもそも自分が「生きていられる事の根本」なんだと思う。
もっと真面目に聞いとけよ、と高校生の自分に言いたいけれど、分からないんだよねその時は。でも聞いておいて良かったなと、改めて思う。